FURTHER通信Vol.79

いつも大変お世話になっております。FURTHER代表の佐野隆弥です。お客様方には、日頃より弊社をご愛顧いただきまして、この場をお借りして改めて感謝御礼申し上げます。誠にありがとうございます。

檜舞台

「檜舞台ですね。」などと言われると、背筋がピッと伸びる気がする。なんとなく、その言葉自体が持つ重みと敷居の高さを感じるからなのか。とにかくこの言葉には何か不思議な響きがある気がする。

気になったら吉日。語源を調べてみた。もともと檜舞台とは、能や歌舞伎といった日本の伝統芸能において、舞台に最高級の木材である檜(ヒノキ)が使われていたことに由来する。そのため、「檜舞台に立つ」ということは、特別な場に立つことを意味する。つまり、選ばれた者だけが立つことが許された場所なのだ。

やはり大一番の舞台であることは間違いない。

誰かの檜舞台

長い人生の中、誰にでも自分だけの檜舞台があると思う。子供だったらプールの発表会なのかもしれないし、中高生であれば大好きなあの子へ告白するその日がそうなのかもしれない。その舞台の上で人は、何をするのか。多くの場合、それは「表現」をするだろう。泳ぎ切ると、という表現。怖いけど、気持ちを伝えるといい表現。全ての場合、檜舞台で行う作業は、大抵の場合、表現である。

生きること=表現し続けること。

表現とは何かを考えてみる。そもそも表現という言葉を考えた時、表現は無限であることに気が付く。今自分が来ている服、他者との会話、信号での譲り合い。表現とは、大きな意味で捉えるのであれば、「内側にあるものを外に差し出す行為」である。時にそれは、言葉であり、身体的表現であり、音でもあり、動きでもある。人は常に何かしらの方法を用いて今の自分を表現し続けている。

そして、(ここが大事なのであるが)その「表現」という行為は、必ずしも他人のためだけではない。むしろ、自分のための行為でもあるとも言える。内にある感情や想い衝動、不意にキャッチした波動。

言葉にならない感情が心の奥に積もっていくと大抵の人は苦しく感じるだろう。だから人は無意識に、話したり、触れたり、携帯の電源をOFFにしてみたり・・・。それらは全て表現といえる。つまり、人が人としてあり続けるには、表現の連続なのだ。

 

もっと根源的に掘り下げてみる。表現の底には「表出」という感覚がある。

表出とは、言い換えてみれば、「出てしまうもの」「内から溢れ出てくるもの。」それは意思というより、「衝動」に近いニュアンスがある気がする。子ども達が、泥んこ遊びが好きなように、なぜか涙が出てしまう日のように、誰かと出会って思わず笑顔が溢れるように。

それらは「見せたい」というより、「出てしまった」ものであり、表出という行為には一切の嘘が無い。また表出された対象を、他者が評価する必要性も感じないし権利もない。

表現と表出について、弊社お客様のWebサイトにて詳しく解説がされていますので興味のある方はぜひ覗いて見てください。

大中里こども園:表現と表出とは

表出は、どちらかというと反射的な感情に対しての行動に近い気がするが、表現とはまた少し違ったニュアンスを感じる。

表現と承認欲求の違いとは?

ここでもまた疑問が生まれる。生きていることは、表現し続けることなのだが、なぜ人間は表現を行う際に、檜舞台を好んで(言い換えるのであれば、よりたくさんの注目を浴びるであろう大舞台)表現を行うんだろうか。それは、言い換えてみると承認欲求となんら変わりのない感情なのではないか。それは表現と言えるのか。悩んだ。

そうか。

檜舞台とは、「表出」と「承認」のせめぎ合いが、最も純度高く表れる場所なんだ。あの高揚感や緊張感を感じている時に、生きていると実感し、表現もできて表出もできる。そしてさらには、承認欲まで満たされる。誕生日のご馳走オンパレード状態こそが、檜舞台なのだ。

大きな舞台に立つほど、注目度は上がる。拍手も大きくなる。けれど、舞台の大きさは、本質ではない。小さな会議室でも、子どもが家族に向けて描いた1枚の絵でも、それがその人にとっての「檜舞台」であるなら、そこには誇りと、覚悟と、祈りが宿る。それを感じる表現に対して人は心が震える。表現とは、決して「見せるため」だけにあるのではない。「生きている実感を確かめるため」の行為なのだろう。

「留まる」という行為への嫌悪感

先日、とある友人と車を走らせていた時の一コマから、一つの人生訓を学んだので、ここに綴っておく。

富士山周辺の湖周辺を走っていると、たくさんの廃ホテルの前を通過する。湖畔に幽霊のように佇む幽霊のような「廃墟」と、水の流れの無い「湖」から、無意識に負のオーラを感じた自分は、友人に

「なんかこういう雰囲気は、空気が悪くて嫌いだ。」と呟く。すると、その友人は、こう言った。「俺はこういう停滞している、重い空気感は嫌いじゃ無い。停滞することも自然現象の一つだから。」

勝手な無意識→自分にとっての常識

物事を根本的に拒否していると、多角的な視点を見失うことがある。それが原因で物事がうまく運ばなくなってしまうのであれば、そんな残念なことはない。

停滞するということ、止まっているということを嫌う自分と、それを自然現象だと受け入れてきた人間は、これほどまでに一つの事象に対しての印象が異なるのだ、と感じた。

全てを自然現象だと受け入れる視点を持つことができれば、きっと辛いことも、今とは違う感覚でうまく乗りこなせていけるようになれる気がする。

自然に。優しく。自由に。

そんな風に生きてけたら、これから先の人生はもっともっと楽しくなるはずだ。

多くの学びを感じる、2025年の夏。まだまだ始まったばかり!今年も思いっきり楽しみましょうね🌞